メンタルと暮らし

🌈【完全保存版】双極性障害と生きる私の人生の記録

1. 幼少期の記憶 ―「怖い」が日常だった家

私の人生を振り返るとき、どうしても避けて通れないのが、父親の存在です。
物心ついた頃から、父はよく怒鳴り、暴れ、私や妹に手を上げる人でした。
家の中に“安心できる空気”なんてほとんどなかった。
夕方、父が帰ってくる音がすると、いつも胸がギュッと締めつけられたのを覚えています。

「また怒られるかもしれない」
「今度は何が気に障るんだろう」

そんなふうにビクビクしながら生きていた幼少期。
小学生のころから、ふと「死にたいな」と思うこともありました。
父親はみんなの前では優しくて笑顔、でも家の中では怒ると普通に手を上げる人でした。

フライパン、アイロン台、ハンガー、ベルト、まな板、など色んなもので殴られたり、蹴られたりしました。

なぜか学校の先生に相談はできませんでした。

今思うと、虐待のことを知っていた大人(祖父母、母親)がなんで助けてくれなかったの?とつらい気持ちになります。

私は、父親が怖かったせいか、成績は学年で常にTOP10には入る成績でした。高校は県内TOP3の進学校に進みました。大学は、早く実家から出たくて、東京の大学を選びました。

(のちに、父親とは和解しました。そのときの話もおいおい記事にしたいと思います)

あの時の恐怖や孤独が、
人の顔色をうかがいすぎる性格を作ってしまったのかもしれません。
“他人を怒らせないように”ばかり考える子どもでした。

2. 21歳、初めて“自分が壊れる音”を聞いた

2021年の秋。
大学4年生だった私は、半年間休学して派遣社員として働いていました。
就職活動もうまくいかず、将来が見えなくて、焦っていた時期です。

働いていたのはショッピングモールの中。
クレディ〇ゾンのクレジットカードをお客さんに勧誘する仕事でした。
始めたのは11月。
派遣契約が3か月だったので、「とりあえず3か月だけ頑張ろう」と思って始めたけど、
仕事は想像以上に苦痛でした。

「年会費が高いカード」や「自動リボ払い設定」など、
会社が儲かってお客さんが損をするような仕組みを勧めなきゃいけない。

そしてこれらの営業が成功するとチーム内で褒められるんです。
でも、営業が成功した日でも、家に帰ると罪悪感でいっぱいになりました。
「あのお客さん、大丈夫かな…」「私のせいで損したらどうしよう…」
頭の中でその人の顔が離れない。

12月に入るころから、通勤電車の中でめまいがするようになり、
仕事中に突然呼吸が荒くなって、救護室に運ばれることもありました。
それでも「3か月契約だから」と辞めさせてもらえず、
朝、ベッドから出られなくなるまで無理を続けてしまいました。

このころから、日常的に一人でいると涙が出るようになっていました。


3. 2022年1月14日、精神科のドアを開けた日

2022年1月14日。
その日、私は人生で初めて精神科を受診しました。

家の近くの小さなメンタルクリニックでした。
病院のドアを開けるとき、手が震えていました。

診断結果は「適応障害」。
先生に「仕事は時給制でしょ?」「そんなに気負わなくていいよ」「仕事を休んでください」と言われ、
その翌日、1月15日に退職しました。

ほっとしたような、情けないような、なんとも言えない気持ち。
同僚の誰も病んでいなかったので、
「自分だけが弱いんだ」と思っていました。

でも、退職して「もう仕事に行かなくていい!」と思うとすごく気持ちが楽になって鬱状態も大分回復したのを覚えています。

そのあとは、1日中寝て過ごすという、療養生活を送りました。

退職後の3か月間は、奨学金の振込と、当時の彼氏の支えでなんとか生活していました。
みんなが就職を決めていく中、
自分だけが立ち止まっているような不安もありました。

また、自分がこうなったのは幼いころからずっと虐待をしてきた父親のせいでは?と父親に対する恨みもありました。


4. 病名が変わった日 ―「双極性障害」との出会い

2月に入ったころ、薬がレクサプロ(主にうつ病など)→エビリファイ(主に双極性障害など)に変わりました。
そして、診断名も「適応障害」から「双極性障害」になりました。

「双極性障害?なにそれ?」
最初は全然ピンと来ませんでした。
調べると、「気分が上がる“躁”と落ち込む“うつ”が交互に来る病気」だと書いてありました。
「まさにこれだ…」と思いました。

躁のときは自信満々で何でもできる気がして、
うつのときは自分なんていない方がいいと思う。
その波が激しくて、自分でも自分を制御できない。

自分の場合は、躁状態のときはすごく勉強がはかどって、2週間ぶっつづけで勉強して簿記2級に合格することができました。

うつ状態のときは、世の中で足を引っ張っている自分。いなくてもいい存在。だと考えてしまっていました。

でも、薬が合っていたおかげで、少しずつ気分が安定する日が続いて、初めてクリニックに行ってから3か月後の4月には大学に復帰できました。
春の風を感じながら登校した日、
「また普通に学校に行けるって、なんて幸せなんだろう」と思いました。


5. 安定と再生の春

授業にも出られて、心身ともに落ち着いていました。
おかげで単位も無事に取れて、2022年9月に大学を卒業できました。

在学中に簿記2級とFP2級を取得していたので、
卒業後は地元の会計事務所に正社員として就職しました。

「やっと社会に戻れた」
「もう大丈夫だ」

そう思っていたのですが、
現実はそう甘くありませんでした。


6. 再び崩れた心、会計事務所での現実

会計事務所は、正確さとスピードが求められる世界でした。
最初はやる気に満ちていたけれど、
次第にプレッシャーと責任感が重くのしかかってきました。

少しのミスで注意されるたびに、自分がダメ人間に思えて。
またあの「電車に乗れない朝」が始まりました。
朝ベッドから起き上がれず、出勤できない日が増えていきました。

私がいたのは社員数合計7名の小規模な税理士法人でした。

私の席の右にはしごできの同期、私の左はベテラン税理士、後ろも社長(税理士)で常に見張られているような環境でした。

同期がいたことで、比べられている気がして毎日つらかったです。(あっちはしごでき、私はポンコツでした、、)

結局、入社して8か月で退職。
でも今振り返れば、「8か月もよく頑張ったよね」と思います。
病気を抱えながら、働けていた時間があっただけでも、私にとっては大きな一歩でした。


7. 結婚とピル中止、そして「暴力的な自分」との出会い

その後、結婚しました。
安定した日々を送りたかったのに、
結婚を機にピルの服用をやめた途端、性格が変わってしまったんです。

突然、怒りが抑えられなくなって、
夫に手を上げてしまうことが増えました。
家の中はボロボロ。スマホを何回も投げてボロボロにしてしまったこともあります。
私も泣きながら「なんでこんなことをしてしまうんだろう」と苦しみました。

そんな私に、夫は言いました。

「DVを病気のせいにするな。性格が悪いだけでしょ。」

その言葉が、胸に刺さって抜けませんでした。
「違う、私だってやめたいのに…」
でも誰も理解してくれない。
家族にも友達にも言えず、完全に孤独でした。

そして私なりに考えて、ピルを辞めてからこうなったと気が付いて、ピルの服用を再開しました。すると1か月ぐらいで少しずつ気分が落ち着いていくのを、自分でも感じました。

そしてある日、夫がふとつぶやいたんです。

「薬で落ち着くってことは、やっぱり病気だったんだね。」

その瞬間、涙が止まりませんでした。
ようやく、誰かに「病気」として理解してもらえた気がしました。


8. 躁状態の私 〜止まらない買い物の衝動〜

私の双極性障害で、もうひとつ大きな特徴が“躁状態”です。
気分が高いときは、すべてが楽しくて、
「今なら何でもできる」と本気で思ってしまう。

その時期は、買い物が止まりませんでした。
ブランドバッグ、コスメ、服、家具、家電……
「これは必要だから」「自分へのご褒美だから」って、理屈をつけて買ってしまう。

一番ひどい月は、クレジットカードの請求が90万円を超えました。

そして、うつの波が来たとき、
請求書を見て泣きました。
「なんであんなに使っちゃったんだろう」
「また迷惑をかけた…」

そんな自己嫌悪のループに何度も陥りました。


9. エビリファイ3mg+ピル

私には、絶対に欠かせない薬があります。
それがエビリファイ3mgとピル(トリキュラー)です。

この薬を飲むようになってから、
気分の上下が驚くほど穏やかになりました。
躁にもならない、うつにも沈まない。

今でも、普通の人よりは打たれ弱いところがあります。
上司の一言がずっと気になって辞めたくなったり、一人で泣いてしまったりします。

でも、以前のように「死にたい」と思うことはなくなりました。

おかげで、夫との関係も安定し、
家の中に少しずつ笑顔が戻ってきました。


10. 今の暮らし、そして働き方

「それでも働かなきゃ」と思っていた私は、
今は自由出勤の正社員経理職として働いています。

この職場に出会えたのは、本当にラッキーでした。
私の場合、みんなみたいに“毎日同じ時間に出勤する”なんて絶対にできません。
でもこの仕事なら、自分の体調に合わせて働ける。

朝、心が重い日はゆっくり始めて、
気分がいい日は一気に仕事を片づける。
そんなリズムで続けられています。


終章:波があっても、ちゃんと生きている

正直、障害年金(14.7万/月)など福祉のサポートは受けているけどもやっぱりこの病気にはなりたくなかったです。

病気を言い訳にしたくない。
でも、病気を無視しても生きられない。
その間で揺れながら、
「それでも今日も生きよう」と思えることが、
今の私にとっての“安定”です。

そして、あの日、理解してくれた夫の一言が、
今も私の支えになっています。

「薬で落ち着くってことは、病気だったんだね。」

もし、この記事を読んでいるあなたが、
今つらい気持ちでいるなら、
どうか自分を責めないでください。

あなたは弱くなんかない。
ちゃんと生きようとしているだけです。

今日も薬を飲んで、
少し笑えて、眠れたなら――
それだけで十分。

私は、別に立派に活躍できなくても、生きているだけで価値があって、
生きているだけでそれでいいんだと自分に言い聞かせることで自分を落ち着かせています。

波のある人生も、美しくて、ちゃんと意味がある。
私もまだ、その波の上で、今日も生きています。

💬 お読みいただきありがとうございました。
この日記が、同じように悩む誰かの心に、
小さな灯りになりますように。

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